災害は忘れたころにやってくる

大塚切れ洪水碑 @福町

2017.06.13

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大塚切れ洪水碑

大正時代の洪水のすごさを現在に伝える碑

大正6年に高槻市の大塚で堤防が決壊し、淀川右岸が浸水しました。その水を流し出すために、西淀川区の福町で堤防をわざと切って淀川に流し出しました。その地点に『大塚切れ洪水碑』がございます。

西淀川区のホームページより

大正6年9月末の豪雨により淀川右岸三島郡大冠村(現在の高槻市)大塚の堤防が二百メートルにわたり決壊しました。この洪水の決壊個所から「大塚切れ」と呼ばれました。三島郡の大半を沈め当時西成郡であった現在の東淀川区、淀川区、西淀川区一帯は泥海と化し、十三付近で浸水八尺(約2.4メートル)に達しました。この洪水による浸水町村数 三十一、罹災戸数一万五千四百九十七戸、罹災人口四万六千四百九十一人に達しました。

当時の福村では、十月一日夕刻、村民に対して避難するよう通告されました。そして三日昼過ぎ、さらに濁流が押し寄せました。そして十月中旬ようやく淀川の水位が下がりはじめました。浸水各村内の水位の方が淀川より高いので、今の国道四十三号より上流約二百メートルの個所で淀川の堤防を切開して停滞していた湛水を淀川へ流し出しました。福村で地面を見ることができるようになったのは、ほぼ一ヶ月後の十一月五日でした。現在、湛水を流し出すために堤防を切開した地点の右岸堤防に大塚切洪水碑が建てられています。
引用元:西淀川区 歴史を訪ねて(西淀川区) 区内の碑

名称:大塚切れ洪水碑
住所:〒555-0034 大阪府大阪市西淀川区福町1丁目4−12

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